bon now

ありのままの現実を書き殴る吐き溜め。底辺SEの備忘録。
Written by bon who just a foolish IT Engineer.

明文化することの重要性

Created Date: 2018/11/28 01:05
Updated Date: 2024/01/01 00:26

最近明文化することの重要性を痛感している。

今まで働いてきて、例えば引き継ぎをするだとか人に説明するだとかいうときは、 毎回言葉で説明していたときもあったけど、それだと自分の時間も奪われるし、相手の時間も聞き返すとかメモをとるとかでめちゃくちゃ時間をとる。 結果2人分の時間をコストとして消費してしまうし、お互いの認識が本当に合っているというのも何と比較してそう言えるかが分からない。

特にそれらの問題を引き起こすもので顕著なのが、開発のプロセス意識の持ち方が無いこと・異なっていることであった。

どちらもなあなあでやっちゃうとイレギュラーケースを生んでしまい、サービス品質の低下やモチベーションの低下、 チームとしての方向性の食い違いなどが生じてしまう。 よくブラック企業が「会社の格言」みたいなのを書して飾ってるみたいなやつがあるけど、あれって悪いことばかりじゃなくて、 ブラックだとしても認識を1つに持たせるという点においては価値がある。 もちろん、継続的にそれ通りに行動できているかってのをフィードバックしなきゃだめだけど、そこは今回の問題とは関係のない部分である。 ともかく、自分らの心理的安全性ならぬ作業的安全性を確保するためには、ある程度の見えざるなにかはきっちりと文書にしなければならない場面がある。

また、最近僕はビジネス書を読んでいて、そこから思うことは僕の考えているごちゃごちゃとモヤモヤとした何かは、だいたい偉い人が文書にしてくれているということだ。 例えば僕には当たり前のように妬み僻みという感情があって、その中には叶うことのない羨望や自己投影みたいな願望もありつつ、 そしてまた自分の現在を嘆きつつも肯定したいわけだが、 この形のないモヤモヤをニーチェは「ルサンチマン」という単語で示してくれている。大変明快である。 明文化されているだけでそういった知見を蓄えることができるのだから、やはり重要性は高いといえるだろう。 それに文書を書くアウトプットは結果的に自分自身の思考の整理にもなるし、コミュニケーションの1つとしての文書のスキルだって確実に向上する。 ポートフォリオだって作れる。いいことばかりなのだ。

まあそんな感じで、僕らのような凡人は天才に支えられているわけで、 ときにはその天才の言葉をそのまま真似したい気持ちにとらわれるわけである。 「天才が言っているから正しい。私はあの天才と同じ行為を繰り返しているだけであり、これは正しきプロセスである」と、 自分自身に対する振り返りを忘れ、虎の威を借る狐のごとく本質的な行いをほっぽりだして突き進みがちになる。 そういうときこそ立ち止まり、自分にとって必要なことはなんだろうという問答と、 自分が組織・そして会社の利益にどう貢献できるのかを考えなきゃいけない。 誰しもそうやって道を誤りそうになるのだから、明文化するということは重要なのである。

過ちを正すための書、信じる思いを示すための書、悩みを解消するための書などなど、人生はいろいろな場面で明文化されたモノに支えられる。 僕の文章も、いつか自分が振り返るときに、自分を正すものであってほしいと思って書いている。

願わくば、全然知らない誰かの心にもちょっとだけ届いてくれたら本望である。

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